頼山陽の有名な詩です。・・・ちょっと違う?
今日は旧暦で9月10日です。信州川中島で武田軍と上杉軍の決戦が行われた日です。・・・こんな寒い中戦ったんだねぇ。当時は全地球的に寒冷期で、今よりもっと寒かっただろうに。昔の人は強かった。
さて、川中島の戦いでよく言われるのは、本当に一騎打ちがあったのか、です。あったと考える方がロマンがありますが、武田方では、有名な床几に座っている信玄に馬上の謙信が斬りかかったシーンです。が、上杉方で残っている絵では、川の中で双方馬上で斬り合っています。どっちがホント?私の考えでは、「川中島」という地名から川の中の中州で戦ったんだろうと後世の人が想像して、上杉に伝わる絵を描いたんじゃないかなと。なので、武田に軍配を上げます。
大体のドラマが武田方の一騎打ちのシーンばかりです。NHK大河の「天と地と」、「武田信玄」、「風林火山」。「風林火山」は映画でもありました。唯一、上杉方の一騎打ちを描いたのが角川映画の「天と地と」ですが、私はどうも違和感があります。謙信が信玄の本陣に突入したら、もぬけの殻だった。既に海津城方面に後退していたのですが、川を渡ってい時に前方から謙信が部隊を連れて現れます。どうやって先回りした?信玄は上杉軍の横っ腹を突こうとしたのですから、川を後ろにした陣を布いているはず。で、川の中で一騎打ちがあったとしたら、そこはどこなのか?後方?謙信が後方まで進出した?こういったあたりからも、上杉の絵は間違っているだろうと思うのです。
また、本当に啄木鳥戦法はあったのかという疑問も聞きます。その人が言うには、妻女山の南側から万単位の兵士が攻撃かけられるはずもない、森や藪で通行するのに何時間もかかるはず、と。確かにそうですね。妻女山と言っても、その後ろに天城山が控えており、比高差350mの登山をしないといけません。まあ、天城山まで登らなかったとしても、最低でも250mは登らないと妻女山北斜面に陣地を構える上杉軍の後ろに出られない。これは相当大変です。それに、山の中腹は木が茂っていますので馬を通すのも一苦労でしょう。と、思っていた時期が私にもありました。
このことを風呂に入りながら考えていて、ふと思ったのです。上杉軍、補給をどうしていたのかな、と。日本人はコメを食べますので、薪が結構な量が必要です。長対陣ならなおさら。でも、それを越後から持ってきているとは思えません。とすれば現地調達。北側は川と野原ですので、上杉軍は南の山から木を切り出して、掘っ立て小屋を作ったり、薪にしたりしたでしょう。露営は寒さが厳しいし。そう考えると結構木が切られて禿山になっていて、通行しやすかったかも。それに寒い時期だから下草も枯れているだろうし。
案外、啄木鳥戦法はイケたかもしれません。補給物資量からそういったことを考察する歴史家っていないもんでしょうかね。
多分弁慶が泣きながら渡った橋は五条の大橋でしょう・・・