「一の谷合戦でしかけた義経の陥穽」(梅村伸雄)

 一の谷の戦いに関する本を漁っていたら見つけました。他では見られない大胆な説を取っています。

 

 「平家物語」の一の谷の戦いの記述では、地理に関しておかしな記述がいくつかあります。

 

・教経は三草山に陣を張った

 三草山は一の谷の合戦の数日前に義経が資盛らを夜襲して打ち破った戦いですが、もちろん教経がいたわけがありません。

・教経、重衡、忠度らが一の谷や須磨を過ぎて明石など西に向かって逃げた

 搦手が塩屋→一の谷→須磨へと東に向かって攻めているときに、関ヶ原の島津軍でもあるまいし敵中突破しないと明石には行けません。

・そもそも搦手の一部でしかない「一の谷」がなぜ合戦の名称になっているのか

 

 こういった問題があるので「平家物語」は二級資料扱いなのです。とはいえ一級資料の「吾妻鏡」や「玉葉」などでは合戦の詳細は分かりません。

 

 さて、この本では、これらを一気に解決する方法として、全部福原(生田から須磨の間)に入れちゃいました。まず、播磨・摂津国境を鵯越和田岬のラインに移します。その上で明石、印南野を苅藻川(新湊川)の東に持ってきてしまいます。また、湊川に沿って湖があったとし、これを「一の谷湖」と名付けます。三草山も鵯越のそばにあった事にしています。

 なんて大胆。まあ面白い説ではあります。

 著者は当年90歳になる方で(生きていれば)、元々は商船学校を出て海運会社の船長だったようです。現在は郷土史研究をしているアマチュア史家のようです。

 さて、上記の説ですが、突っ込み処満載です。

 まず、惜しいと思うのは、この本は研究書ではなく小説の形を取っている所です。処々で出てくる登場人物のセリフもフィクションなので、まともな歴史研究書として取り上げることができません。

 それから現実の地形を無視した地図を載せています。

・播磨・摂津国境が何も地形的な境界とならない山の中を横切っている

湊川の流れが新湊川に沿っていて旧湊川が無視されている

・地形データを見ても「一の谷湖」があった形跡がない(ボーリング調査で湖底堆積物でも出ればいいんですが)

・そもそも湖なのになんで「一の『谷』」という名前なのか

・現在「一の谷湖」の形跡がないのは埋め立てられたからだとすると、そういった大規模土木工事の資料がない

・一の谷湖がある場所は山陽道を横切っているので、もしあったなら渡しがあるはずだがない

・赤石(明石)はともかく(同じ地名が二か所にあったとしている)、印南野の地名が現明石の北に移ったのは何故かが記載されていない(人がいない所ならともかく街道沿いなので移ったならそれなりに記録が残るはず)

和田岬の北側を「難波潟」としているが「難波」という地名の意味とは合わない

 ざっと考えるだけでもこれだけ突っ込めます。著者はいろいろ文献を読んでいるようですが、資料として挙げている文献も自説に都合がいいものしか取り上げていない可能性もあります。

 説として面白いけど、物理的な裏付け(考古学調査)がないと、面白いというだけで終わりです。この人はあちこちで論争したらしいけど、どうなったのでしょうかね。