前に、太平記を読んでいて、切腹が多い事について書きました。一方、平家物語では切腹は見かけません、殆ど入水です、と。
切腹というのは日本独自の行為で、中国では刀を振り回してその勢いで自分の頸を刎ねた項羽という事例がありますが、まあ、大抵は毒薬のようです。屈原は入水か。西洋でも、ハンニバルは毒酒、クレオパトラは毒蛇に噛ませています。切腹なんて一例もないでしょう。多分。なので、なんでこんな事が日本だけ発生したのか、どういう精神構造で発生したのか、興味がありました。
そんな折、この本を見つけたのです。買わずにいられようか。
この本は第三版で、初版は1973年だそうです。なので、現代では否定されている事や間違いもあります。例えば、鎌倉幕府滅亡が5月22日とか、信長が死んだのが51歳とか、北条早雲は下層庶民出身とか。が、まあ、当時ものなので仕方がないですね。その辺は割り引きます。
本書は、切腹の起源とされる辺りから、三島由紀夫の事件まで、切腹の事例や作法についてまとめてあります。気になる起源ですが、播磨国風土記の腹辟沼(はらさきぬま)の伝承から始まっています。これによれば、琵琶湖の女神さまが夫を追いかけて播磨の国に着き、追いつけず恨みを込めて、「刀をもちて腹を辟き」と書かれているようです。まあ、著者も伝説だからと断っています。その後、平安時代の盗賊袴垂(はかまだれ)について書かれた今昔物語を紹介しています。まあ、著者も説話集だからと断っています。「保元物語」の源為朝が最初ではという説も紹介しています。私が思うに、実際に記録されているか否かに関わらず、切腹するという行為自体は知られていたのだろうと思います。想像だけで琵琶湖の女神さまの話が書けるとは思いません。とはいえ、記録がないので誰が最初かというのはわからないでしょう。
平家の入水については、まだ切腹自体が一般的ではなかったためだろうという風に説明していました。うん、納得できる。実際のところ、為朝の切腹以外に記録が無いのですから、まだあまり浸透はしていなかったのでしょうね。
この本で注意を引いたのは堺事件の話です。巷説、よく言われるのは、切腹の凄惨さに「あの」ロッシュが逃げ出したという事で、日本武士道の精華だというものです。一方のフランス側は、フランス水兵の死者11人と同じ数なので、それで良しとしたという事です。著者はどちらかという判断を書いていませんが、私が考えるにフランス側の言い分は無理があると思います。
第一に、当時の西洋人(フランス人を含む)が、東洋人(日本人を含む)に対して自国民1人と東洋人1人が等価だと思っていたのだろうか、という点です。そうは思えない。
第二に、そもそも等価だと思っていたなら、最初から11人と指定すればいいものを、最初は20人の「斬首」を指定してきたことです。
第三に、途中で11人でよいと思ったのならその場で言えばいいのに、逃げ帰ったロッシュを訪問して残り9人の刑執行中止が決まった事です。
そもそも、フランス人でしょう、ギロチンを作ったのは。あれは一刀のもとに首を刎ねるための物ですが、処刑現場では首を刎ねるために何回も切ったらしいです。いきなり決まった介錯人では、山田浅右衛門のようにはいかなかったのでしょう。それはフランス人にとっては凄惨だったでしょうね。
そんなわけで、フランス側の言い分はちょっと賛同できません。まあ、だからと言って、日本武士道の精華などとは思いませんが。