技術者の残すもの

 隣の県までお墓参りに行ってきました。お墓参りというよりはお墓掃除ですが。安いけど辺鄙なところにあるので行くのが大変です。ここに私も入るのか・・・。

 先祖代々の墓ですが、先祖代々と言っても祖父の代で分家になったので、

先祖=祖父

代=父

々=私

 おお、ちょうどだ。サイズ的にも父母と私が入って一杯でしょう。

 とはいえ、私は自分がどこに入ろうが、無縁仏になろうが、一向にかまわない。それどころか、自分の骨がどうなろうが知ったことではない。この感覚は、なんとなくミャンマーの人たちと同じですが、彼らと違うのは祖霊の存在すら信じていない点です。人は死んだらそれっきり。天国もなければ地獄もない。来世もない。輪廻も(魂的には)ない。そう思っています。

 

 私は技術者です。技術者は、その成果だけ残ればいいと思っています。名も残す必要は全くありません。これは、司馬遼太郎の『花神』の中で述べられていたことです。私は別に司馬史観を信奉していませんが、端々の言葉には記憶に残るものがあります。

 技術者は、その仕事だけが残ればいい。それ以外は、自分自身すら残らなくていい。

 

 そんな考えでいるので、自分の墓にはあまり興味がなかったのですが、まあ付き合いで墓掃除ぐらいはします。

 でも疲れた・・・

 

(追記)輪廻について

 魂的な輪廻はないと思っていますが、物質的輪廻はあると思っています。

 私の体を構成しているのは、私が食べた動物、植物が基になっています。つまり、私は彼らの生まれ変わりです。

 私が死ねば、私の体は焼かれ、二酸化炭素となり植物に吸収されます。また、灰は骨壺に入れられ、いずれは何か別のものになるでしょう。私はそれらに生まれ変わるのです。

 物質的輪廻とはそういうことです。まあ、質量保存の法則が成り立つ限りは、何かに生まれ変わることでしょう。宇宙葬とかにされなければ・・・。