『武田氏滅亡』(平山優/角川選書)を読む

 前に武田信虎のことを書いた時、種本として平山氏の『武田信虎』をあげました。同じ平山氏の作品ですが、こちらは武田勝頼を主人公にしています。まあ、こちらの方が先に読んだのですが。

 武田勝頼というと、世間一般では「愚将」とされていることが多いかと思います。なにしろ甲斐・信濃を領有しておきながら武田家を滅ぼしてしまいましたから。しかし、武田信虎の所でもそうでしたが、世間一般の考えが正しいとは限りません。平山氏はこれに挑戦しています。

 平山氏は、古文書、とくに手紙の調査から、実際に当時の記録をベースにして論議を広げています。このため、より実証的に歴史を構築しています。私はこういう論文が大好物です。こういった態度は、SNSによるデマの拡散が多い現代社会では学ぶべき姿勢だと思います。実際、あのあおり運転におけるガラケー女の事件では、情報を精査せず右から左に垂れ流した人々が迷惑を拡散しています。まあ、それで起訴されたりしているのですが、逃げ切った人は反省もしていないでしょうね。

 閑話休題(それはさておき)、信玄死後に勝頼が置かれた状況や対処などが詳細に書かれており、なかなか読みでがあります(本も4cmぐらいあります)。

 この本を読んで、私が思うに、「どうしようもなかった」のではないかと。勝頼の敵(仮想敵を含む)としては、織田(美濃と信濃国境付近で対峙)、徳川(駿河で対峙)、北条(武蔵、上野で対峙)、上杉(信越国境で対峙)があげられます。このうち、当初明確に敵対していたのは織田と徳川ですが、上杉謙信阿部寛)の死後、景勝(北村一輝)と景虎玉山鉄二)が対立した御館の乱が始まります。当時北条と同盟を結んでいた(北条氏政の妹と結婚していた)勝頼は、北条から養子に入った景虎を支援するために介入しました。しかし、最終的には景勝と景虎の和睦斡旋をしています。つまり中立に立ったんですね。中立って、あまりいい選択とは言えません(コウモリさん)。その後、劣勢を盛り返した景勝が景虎を滅ぼします。妻夫木さん大活躍。北条としては、武田に対する不信感が芽生えます。

 私が思うに、勝頼としては関東と越後が北条の勢力圏内になることを警戒したのではないかと。東と北を抑えられてしまいますしね。でも、これが失敗で、最終的には北条と手切れになり、北条は徳川と同盟を結んでしまいます。織田と合わせて、東、南、西に敵ができてしまいました。北方の越後上杉は妹を嫁がせたので、最後まで武田の味方でした。結局は、周囲が敵だらけになる甲斐と信濃の地勢が問題だったのではないかと思います。

 さて、この本の白眉は、天正十年(1582)一月下旬以降の織田・徳川・北条による武田領侵攻と滅亡を、ほぼ一日単位で情勢を記述しているところです。信濃の諸城がまさに「ドミノ倒し」に落城していくところなど涙なしでは読めません。あまりに急激に進撃していくため、織田信長は息子の信忠(先手の司令官)に「俺が行くまで先に進むな」と命令するぐらいでした。北条などは、参戦させるための織田の謀略だと疑ってなかなか動こうとしませんでした(こういうの致命的)。

 武田の最後は三月十一日。勝頼に殉じた人々の氏名が記載されています(女性も)。

 

 信虎は悪逆非道ではなく、追放の前年の大型台風の直撃による飢饉と、それ以前の国内での争いが原因で追放されました。国内での争いは、ただただ、自国の生産力を落とすだけでしたので。

 信玄は、領土拡張期、つまりイケイケどんどんの経済成長期に当主の座にいました。他国への侵略は、その土地からの収奪により自国が潤うため歓迎されたのです。

 そして、勝頼は、最大版図を得ているとはいえ信玄の拡張率に比べ微々たるものです。つまり、停滞期であったわけです。しかし、新府築城など金のかかる事業を推し進めたため、税金を取られる側に不評でした。これが、信濃諸城の自落につながったとしています。私もその通りと思います。

 こう並べると、信玄はずいぶんと幸運であり、信虎と勝頼は不運であったと言えそうです。平山氏は言っています。

 武田氏は滅ぶべくして滅んだのです。ただ、あともうちょっと頑張れば本能寺の変で状況が変わったかもしれません。